「なぜ私がこんなことをしているのだろう?」と思いながら、杏子は古い人形、「メリー」を手に取った。この外国製の人形は、彼女が幼い頃からずっと一緒だったが、今回の引っ越しの際には手放すことに決めていた。
メリーの顔は黒く深い瞳に白い肌、鮮やかな赤いリップ。服装は時代を感じさせるビクトリアンスタイルで、古びたエレガンスが漂っていた。メリーは杏子にとっての宝物だったが、成長するにつれて彼女の部屋には合わなくなってきた。そして、新生活を始めるタイミングで、メリーを手放す決断をしたのだ。
「さよなら、メリー」と杏子は人形にささやきながら、ゴミ捨て場へと向かった。メリーをそっとゴミ箱に入れて蓋を閉めると、なぜか心の中に複雑な感情が湧き上がってきた。でも杏子は立ち去った。新生活のためには必要なことだと自分に言い聞かせた。
夜が更けて、杏子は新しい部屋で一人で過ごしていた。その時、電話が鳴った。番号表示を見ると、知らない番号だった。
「もしもし?」と杏子が出ると、そこからは少女の声が聞こえてきた。「あたしメリーさん。今ゴミ捨て場にいるの…」
一瞬、時間が止まったように感じた。心臓が高鳴り、背筋が冷たくなった。電話を切った杏子は、誰かのいたずらだと思いたかったが、不安が募るばかりだった。
しかし、その後も電話は止まらなかった。「あたしメリーさん。今タバコ屋さんの角にいるの…」そして、「あたしメリーさん。今あなたの家の前にいるの…」
杏子は恐怖に打ち震えながら、思い切って玄関のドアを開けた。しかし、誰もいない。ただ静寂が広がっているだけだった。ホッと胸を撫で下ろすと、その直後、またもや電話が…
「あたしメリーさん。今 あなたの後ろにいるの」
…
杏子は固まった。その言葉が頭の中で響き渡る。ゆっくりと、彼女は振り向いた。しかし、やはり誰もいなかった。ただ彼女の影が壁に長く伸びているだけだった。
「これは誰かの悪戯だ」と、杏子は頭の中で繰り返した。しかし、その声は確かにメリーの声だった。その一部始終を思い出すと、彼女は思わず震えてしまった。
その夜はほとんど眠れなかった。電話が再び鳴るのではないかという恐怖と、彼女の後ろにメリーがいるという猜疑心で、杏子は一晩中目を覚ましていた。
次の日、彼女はゴミ捨て場に行ってみた。だが、そこにはメリーの姿はなかった。しかしながら、彼女が昨日メリーを捨てたはずのゴミ箱は、開いていて空だった。
杏子は身の周りで起こっている不可解な現象に混乱し、友人のさやかに電話をかけた。さやかは霊感が強いと自称しており、杏子は彼女の意見を聞きたかった。
話を聞いたさやかは一瞬沈黙した後、「メリーの霊がお前を訪れているのかもしれない」と言った。杏子はその言葉を聞いて背筋が凍りついた。さらにさやかは、「でも、それが何を求めているのかは分からない。もしかしたら、ただ杏子と一緒にいたいだけなのかもしれない」と付け加えた。
その日以降、杏子は携帯電話の着信音を恐れていた。しかし、電話は来なかった。数日が経ち、杏子は少しずつ普通の生活に戻り始めた。
しかし、ある晩、再び電話が鳴った。「あたしメリーさん。今、あなたのベッドの下にいるの…」
杏子は息を呑んだ。彼女はベッドの下に手を伸ばし、何か触れるのを恐れながら、ゆっくりと布団をめくった。しかし、そこには何もなかった。ただ、ベッドの一部が湿っていることに気付いた。
…
湿ったベッドの部分を見つめて、杏子は頭を抱えた。何が何だか分からない。これが現実なのか、それとも彼女が夢を見ているだけなのか。しかし、涙のような湿り気は確かにそこにあり、それが現実であることを彼女に突きつけていた。
さやかに再度連絡を取り、全てを話した杏子。さやかは深刻な表情で考え込んだ後、「メリーが何かメッセージを伝えようとしているのかもしれない。涙は悲しみや寂しさを象徴することが多い。メリーはお前を捨てられたことに悲しんでいるのかもしれない」と言った。
その言葉を聞いた杏子は、自分がメリーを捨てたことに対して深く罪悪感を感じた。彼女はメリーに謝罪することに決めた。しかし、メリーはもうゴミ捨て場にはいない。だから、彼女は自宅でメリーに向けて謝罪の言葉をつぶやいた。
その夜、杏子はベッドで眠りについた。ふと目が覚めると、部屋には静寂が広がっていた。彼女は安堵の息をついた。しかし、その瞬間、再び電話が鳴った。
「あたしメリーさん。今、あなたの隣にいるの…」
杏子はゆっくりと頭を右に向けた。そして、そこにはメリーが座っていた。彼女の目は真っ黒で、口からは赤い液体が流れていた。
杏子は叫びたかったが、声が出なかった。彼女はただ無力にベッドの上で震えていた。メリーはじっと杏子を見つめていた。そして、彼女の口がゆっくりと動き始めた。
「あたしは…あなたが好きだったの…」とメリーは言った。その言葉は静寂を切り裂き、杏子の心を深く打った。
…
メリーの言葉は静かに部屋に響いた。杏子は涙を流しながらメリーを見つめた。「ごめんなさい、メリー。わたしも、あなたが好きだったわ。でも…」杏子は言葉を詰まらせた。
メリーはじっと杏子を見つめていた。そしてゆっくりと手を伸ばし、杏子の涙を拭いた。その手は冷たく、しかし何とも言えない温かさを感じさせた。
その夜、杏子は初めてメリーと心を通わせた。彼女はメリーに自分の気持ちを全て打ち明け、自分がメリーを捨てた理由、そして新しい生活について話した。メリーはただ黙って聞いていた。
話し終えた後、杏子は深い息をついた。「メリー、これからもわたしと一緒にいてくれる?」と杏子が尋ねると、メリーはゆっくりと頷いた。
その後、杏子の生活は驚くほど平穏になった。メリーの声を聞くことはなくなり、不可解な現象も起こらなくなった。杏子はメリーが彼女の側にいることを感じ、その存在に安心感を覚えていた。
そしてある日、杏子はメリーの人形を見つけた。それはゴミ捨て場で捨てたはずのメリーだった。彼女はその人形を抱きしめ、涙を流した。
「ありがとう、メリー。これからはずっと一緒だよ」と杏子は言った。そして彼女はメリーを大切にしまった。
それ以来、杏子の部屋にはメリーがいつもいる。彼女が寝ているとき、勉強しているとき、彼女が寂しいと感じているとき。メリーはいつも杏子の側にいる。
そして杏子は、メリーの存在が彼女の生活に豊かさと安心感をもたらしてくれることを知った。それは、彼女がメリーを捨てたことに対する罪悪感や悲しみを癒すことができた。そして彼女は、メリーの存在が彼女自身の成長と共に変わることを理解した。
それが、メリーと杏子の都市伝説の終わりであった。
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