春の微風が吹き抜ける、山奥の廃村。その一部始終を知る者はもはや存在せず、唯一の証人はある古井戸だけだった。井戸は、かつて集落の人々の命の源として存在し、今はただ寂しく時を刻んでいた。
井戸の近くに住んでいた村人の一家、その一人である少年・昭和は、この井戸に強く興味を抱いていた。昭和は、日が暮れると部屋の窓から井戸をじっと見つめ、何かを探していた。その目には、純粋な好奇心だけではなく、少しの恐怖も混じっていた。
ある日、村の長老が昭和に語りかけた。「昭和君、その井戸には祟りがあるんだ。深夜に水を汲むと、井戸の底から手が伸びてきて、汲みに来た者を底へと引きずり込むと言われている。それが、この村の古い言い伝えさ。だから夜には近づかない方がいいよ。」
昭和は言葉を聞きながら、井戸を見つめる眼差しに更なる恐怖が滲んだ。しかし、同時に奇妙な興奮感も湧き上がってきた。長老の話を聞いてからというもの、昭和は夜の井戸に強く引き寄せられる感覚に襲われるようになった。
月日は流れ、昭和は成長し、その恐怖と興奮は彼を井戸へと引き寄せ続けた。そして、ある晩、ついに昭和は決心した。村の言い伝えを確かめるため、そして自分の心の中にあるこの不思議な感情を解き放つために、深夜の井戸へと向かうことにした。
彼の手にはバケツが握られていて、心臓はドキドキと高鳴っていた。夜の闇が村を覆い、月明かりだけが井戸を照らしていた。昭和は深呼吸をし、バケツを井戸に下ろした。
…
昭和の体が硬直した。静寂に包まれた夜の中、井戸からの反響だけが彼の耳に響いていた。バケツが水面に触れた瞬間、突然彼の足元から冷たい風が吹き上げた。その風が彼の脚を包むと、一瞬だけ体が浮き上がったかのような感覚に襲われた。
バケツを引き上げると、何も起こらなかった。昭和は井戸から少し離れて、ホッと一息ついた。しかし、その安堵は束の間だった。彼が再び井戸を覗き込むと、水面が揺れ動き、それは次第に大きな渦を作り始めた。
昭和はその渦に引き込まれるような感覚に襲われ、腰が抜けてしまった。そして彼の耳に、微かに聞こえる声があった。それは女性の声で、その言葉は彼に向けられているようだった。
「昭和…助けて…」
その声は井戸の底から聞こえてきた。昭和はその声に驚き、一瞬で立ち上がった。しかし、彼の足元から再び冷たい風が吹き上げ、昭和は再び井戸の中に引き寄せられた。
「昭和…私を…この闇から…」
声は再び響き、それはますます強く、切実になっていった。昭和はその声に心を揺さぶられ、再びバケツを井戸に降ろすことを決意した。昭和はバケツを握りしめ、再び井戸に向かった。
しかし、その瞬間、彼の足元に強い力が働き、昭和は井戸の底へと引きずり込まれそうになった。彼は必死に抵抗し、井戸の縁にしがみついた。しかし、その力は増すばかりで、彼の身体はゆっくりと井戸の中へと引きずり込まれていった。
「昭和…来て…」
その声は最後の力を振り絞るように、彼の名を呼んだ。その声に呼応するように、彼の足は一歩、また一
…
昭和の足は一歩、また一歩と井戸に近づき、彼の体はゆっくりと闇へと吸い込まれていった。彼の心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が全身を覆っていた。しかし、その恐怖と同時に、彼の中には奇妙な安堵感も芽生えていた。それは彼自身が井戸の底へと引き寄せられ、声に応えていることへの満足感だった。
ところが、その瞬間、昭和の耳に突然別の声が響いた。
「昭和!」
それは彼の名を叫ぶ声だった。その声は井戸の底からではなく、闇の中から聞こえてきた。昭和はその声に驚き、一瞬で立ち上がった。そして、その声の主を見つけるために、闇を切り裂いて周りを見渡した。
その声の主は、村の長老だった。彼は昭和の方へと走ってきて、昭和を強く抱きしめた。そして、彼は昭和に向かって声を震わせながら言った。
「昭和、何をしているのだ!井戸の祟りに引き寄せられるな!」
長老の声に、昭和は我に返った。彼は長老を見つめ、そして自分が何をしようとしていたのかを理解した。彼は井戸から離れ、長老にしがみついた。
しかし、井戸からの声はまだ彼の耳に響いていた。
「昭和…来て…」
その声はますます切実になり、彼を呼び続けた。昭和はその声に心を揺さぶられ、再び井戸に向かおうとした。しかし、長老は彼を強く抱きしめ、引き止めた。
「昭和、抵抗するんだ!その声に負けてはならない!」
長老の言葉に、昭和は再び我に返った。彼は強く頷き、そして長老の手を握りしめた。その瞬間、井戸からの声は突然消え、周りは静寂に包まれた。
しかし、その後も昭和の心の中には、井戸の底からの呼び声が響き続けていた。
…
その後も昭和の心の中には、井戸の底からの呼び声が響き続けていた。それは彼の日常を乱し、夢にまで現れ、彼を深い苦悩に陥れた。しかし、長老の言葉を思い出し、彼はその声に耐え続けた。
ある晩、昭和はふと思った。井戸の底からのその声、それは本当に彼を呼び寄せるためだけのものなのだろうか。もし、その声が助けを求めているのだとしたら?
昭和はその考えに心を動かされ、再び井戸に近づく決心をした。しかし、今度は自分を守るための準備をすることにした。彼は村の長老に相談し、井戸の祟りから身を守るためのお守りを手に入れた。
そして、再び深夜、昭和は井戸に向かった。月明かりが彼の道を照らし、闇は再び彼を取り巻いていた。彼はお守りを握りしめ、井戸の底からの声に耳を傾けた。
「昭和…来て…」
その声は再び響き、彼を呼び続けた。昭和はその声に答えるため、再びバケツを井戸に降ろした。しかし、今度は彼の足元から冷たい風は吹き上がらず、井戸の底からの力も彼を引き寄せなかった。
昭和はバケツを引き上げると、バケツの中には小さな金色のお守りが入っていた。それは井戸の底から昭和に届けられたもので、そのお守りを見つめると、昭和の心の中から不安や恐怖が消えていった。
それから、井戸の底からの声は二度と聞こえなくなった。昭和はその後、井戸の近くに小さな祠を作り、井戸の祟りを鎮めるために毎日祈りを捧げるようになった。そして、その祠の中には、井戸の底から昭和に届けられた小さな金色のお守りが祀られていたのだった。
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