彼の名前は慎二だった。彼は今春、東京の大学に入学するため、地元の田舎町から都会へと移り住んだ。アパートの名前は「桜井荘」。古びてはいたものの、学生の彼にはちょうどよい家賃だった。しかも駅から近く、大学までも歩いて行ける距離だったので、彼はこのアパートを選んだ。
初日、慎二は部屋の片隅に目をつける。何故なら、そこには中指がすっぽりと入る程度の穴が開いていたからだ。穴は向こう側の部屋へと続いていて、その向こう側は常に真っ赤だった。何度見ても、その色は変わらなかった。
初めのうちは、単に隣の部屋が赤く塗られているのだと思っていた。しかし、時間が経つにつれて、彼の中には不安が芽生え始めた。なぜなら、その赤い光が消えたことが一度もなかったからだ。日中も夜中も、その色は揺るぎなく部屋を覆っていた。
慎二は何度もその穴を覗き、真っ赤な部屋を眺める。しかし、何も見えない。ただ赤い光だけが、彼を見つめているように感じられた。
ある日、彼はその不思議な光について大家に尋ねることにした。「ああ、それはね……」大家は悲しげな表情を見せながら話し始める。「その部屋には、女性が一人住んでいるんだよ。彼女は病気で、目が真っ赤になってしまっているんだ。だから部屋はいつも赤く見えるんだろうね。」
慎二は驚いて大家を見つめた。隣の部屋には、病気の女性が住んでいる。そして、その女性がずっとこちらを見ているという。彼の心は、驚きと共に不安で一杯になった。しかし、大家の言葉には続きがあった。「それだけじゃないんだ、慎二君。彼女が何を見ているのか知っているかい?」
…
大家の言葉が彼の心に深く刺さる。何を見ているのか、というその問いに対し、彼は答えられなかった。しかし、大家は続けた。「彼女が見ているのは、こちらの部屋……つまり、君の部屋なんだよ。」
その瞬間、慎二の心は冷たい恐怖で一杯になった。自分の部屋が常に監視されているという事実。それは彼の心を深く揺さぶった。しかし、大家は悲しげに頷き、「だから、その穴を塞いであげてほしいんだ。彼女がずっと見ていることになってしまうから。」
慎二はその日から、穴を塞ぐための材料を探し始めた。しかし、何を試しても、穴は完全には塞がらなかった。翌朝、彼が目覚めると、穴からは再び赤い光が漏れていた。
その日から、彼の生活は一変した。彼は一人で部屋にいることが怖くなり、いつも友人たちと過ごすようになった。しかし、夜になると一人になり、再びその恐怖が彼を襲った。彼は何度もその穴を覗き、真っ赤な部屋を眺める。しかし、何も見えない。ただ赤い光だけが、彼を見つめているように感じられた。
そしてある日、慎二は自分の部屋のドアの前に小さな封筒を見つけた。中には一枚の紙が入っていて、そこには以下のように書かれていた。「あなたのことが見えています。」それは、彼が予想していたよりもずっと恐ろしい現実だった。彼女は本当に彼を見ていた。彼の行動、彼の生活、全てが彼女の目に映っていた。
それ以来、彼の恐怖は更に増すばかりだった。しかし、彼は逃げることができなかった。なぜなら、彼は学生であり、新しい部屋を探す余裕も時間もなかったからだ。彼はただ、自分の部屋に戻るのを恐れ、友人たちと過ごす時間を増やすだけだった。
…
しかし恐怖に塗れた日々は続く。しかし、慎二の心には新たな感情が芽生えてきた。それは、真実を知りたいという強い欲望だった。彼は、その赤い光が何なのか、そしてその女性が何を見ているのか、自分自身で確かめることを決意した。
彼は夜更けに、隣の部屋へと足を運んだ。心臓が高鳴り、手足が震えていた。しかし、彼はその恐怖を抑え込み、部屋のドアを叩いた。しかし、中からは何の返事もなかった。ドアノブを握り、少しだけ力を入れると、ドアは音を立てて開いた。彼は深呼吸をして部屋に入った。
部屋の中は真っ赤だった。しかし、それは壁紙や照明のせいではなく、部屋の中央に置かれた巨大な水槽から発している光だった。その水槽には赤い液体が満たされており、その液体の中で一人の女性が浮かんでいた。
彼女の目は大きく、その目は真っ赤だった。しかし、その目は空虚で、生命感がなかった。彼女の体は透明なチューブにつながれ、それらのチューブからは赤い液体が流れていた。
慎二は恐怖で硬直した。彼の目の前に広がる光景は、彼が想像していたものとは全く違っていた。しかし、彼はその場に立ち尽くすしかなかった。彼の心は恐怖と共に混乱で満たされていた。
そんな彼の前に、大家が現れた。「君が見たか。これが彼女の現実だよ。彼女はこの水槽の中でずっと生きている。その目は病気で、外の世界を見ることができない。だから、彼女はいつもあの穴から君の部屋を見ているんだ。」
大家の言葉に、慎二はただただ呆然とする。彼の前に広がる現実は、彼が想像していたものとは全く違っていた。しかし、彼はそれを受け入れるしかなかった。
…
混乱と衝撃が彼の心を揺さぶる。しかし、その中でも、彼は隣人の女性に対する深い同情と悲しみを感じていた。彼女は病気で、自分の部屋を見ることしかできない。その事実は、彼の恐怖を超えて心に響いた。
彼はその夜、自分の部屋に戻った。赤い光はまだ穴から漏れていて、彼の部屋を照らしていた。しかし、彼はもうその光を恐れることはなかった。なぜなら、その光が何から来ているのか、そしてその光が何を見ているのか、彼はすでに理解していたからだ。
翌日、彼はその穴を塞ぐことを止め、代わりに穴に向かって話しかけるようになった。彼の日常、彼の思考、彼の感情。彼はその全てを穴に向かって話した。彼は彼女がそれを聞いてくれていると信じていた。
日々は過ぎ、季節は変わる。しかし、彼の部屋から赤い光は消えることはなかった。そして彼はそれを受け入れ、彼女と共に生活することを決意した。恐怖から理解へ、そして共生へ。彼の部屋は赤い光に照らされ、彼の心は彼女と共にあった。
そしてある日、彼の部屋のドアの前に再び小さな封筒が置かれていた。中には一枚の紙が入っていて、そこには以下のように書かれていた。「あなたのことが見えています。そして、あなたのことが理解できています。ありがとう。」
それは、彼女からのメッセージだった。彼の行動、彼の生活、そして彼の思い。全てが彼女の目に映り、彼女の心に届いていたのだ。そのメッセージを読んだ彼の心は、喜びと安堵で満たされた。
その後、彼らの生活は変わることはなかった。彼の部屋は赤い光に照らされ、彼女の存在はいつもそこにあった。彼らは言葉を交わすことはなかったが、互いの存在を理解し、共に生きていくのであった。
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